ADHDの暮らしの知恵

ADHDのアラフィフ主婦がADHDとうまく暮らしていく知恵を共有します

友達

子供の頃から友達は少なめでした。大勢と仲良くするよりも、一人と深く付き合いたい方でした。幸い、小・中・高・大とそれぞれの場で「親友」と呼べるような友達ができ、一対一で深い付き合いをしていました。

けれど、仲が深まるほどに言葉や態度がストレートになり、容赦なく鋭くなってしまうようで、相手を怒らせて、あるいは傷つけて、一時的に離れる、ということもありました。当時の私は、自分がADHDだと知らず、自分はただ「正直で素直な人間」なのだと思っていました。また「正しいことを言って何が悪いの」とさえ思っていました…。

また、「友達が多いこと=良いこと」という認識も持っていました。幼稚園や小学校で習う「おともだちをたくさんつくりましょう」というスローガンが、幼い私の頭の中にしっかりインプットされていたせいでしょう。大勢の友達に囲まれて、真ん中で輝く太陽のような明るい人を見るたび、うらやましいと思いました。自分は人見知りもあるし、人付き合いもおしゃべりも決して上手くはないのに、友達を増やしたいと思っていました。「隣の芝生は青く見える」あるいは「無いものねだり」だったのかもしれません。

自分がADHDという特性を持つことを知ったのが30代半ば。それからたくさんの本を読み、知恵をたくわえた今、言えることがあります。

友達は、たくさんいなくてもいい。悩みごとや喜びごとを、素直に打ち明けられるような友達が、一人か二人いれば十分です。

大人になれば、毎日の仕事、家事、家族の世話で手一杯になります。ましてやADHDという特性を持っていると、日々のルーチンをこなすだけで精一杯。一人か二人の友達にまめに心を運ぶことさえ、できなくなります。

そんな付き合い甲斐のない自分でも、縁を切らずに友達でいてくれる人。そんな友達が、私にも何人かいます。その友達たちとのつながりを、これからも大切にしていこうと思っています。

ADHDの息子のこと・3(小学2年生、診断)

息子が小学2年生の時のこと。

息子の担任は50代の女性教師でした。

ある日、同級生のお母さんから、息子が教室内でグループ活動から孤立させられていると聞きました。息子の机は教卓の真横にポツンとひとつだけ離して置かれ、通常はグループで食べる給食もその机で一人で食べていると。

息子は、2年生になってから「おともだちができない」と悩んでいました。私はこの孤立が原因ではないかと思い、すぐに小学校へ電話をかけ、学年主任に私が聞いた内容を伝えました。折り返し教頭先生から連絡があり「学校で話しましょう」と言われました。

担任は、息子の行動が周囲の子供たちに悪影響を及ぼすと考え、息子の行動を矯正するためにそのような対応をしたのだと思います。けれど、クラスで息子を孤立させるのはやり過ぎではないかと訴えました。教頭先生との話し合いの後、担任は息子を孤立させることをやめました。けれど、担任は息子に対してヒステリックとも受けとれる態度を取り続けました。

何度注意しても、何度教えても、直らない。計画的に進めなければならないカリキュラムが、息子のせいで遅れる。担任のいらだちは、とてもよくわかります。けれど、今から思うと、担任の一連の行動は、障害のあるなしにかかわらず、子供を指導する立場の人としては適切とはいえない行動だったと思います。

2年生を修了してもうすぐ春休みという頃に、担任から手紙をもらいました。「お母さんではもう手に負えないと思うので、教育委員会の機関に息子さんのことを相談しては」という内容でした。

この時、初めて「息子が『普通』ではない」ということを突きつけられたようで、私は大きなショックを受けました。最初は「担任が息子を見放した」と受け取り、怒りを感じました。けれど、これはおそらく担任の一存でなく学校側の総意なのだと思いなおし、勧められたとおり、教育委員会の機関(今では発達障害を持つ人たちのために「発達支援センター」という機関が設けられていますが、当時は何らかの問題を抱えた親子をひっくるめて支援する公的機関がありました。名前を忘れました)を息子とともに訪れることにしました。

そこで、私と息子は専門の担当者から別々に評価されました。私に対しては養育上の問題(貧困、虐待、ネグレクトなど)がないか、息子に対しては心理・発達上の問題がないかを調べられました。そして、息子についてさらに詳しく評価するために、その機関から国立の小児専門医療機関を紹介されました。

その頃、私は「息子が普通でないとしたら何なのか」を、自分で調べ始めていました。そして「息子はADHDと呼ばれる発達障害を持っているのではないか」というところまで、自力でたどり着いていました。

専門医療機関での詳しい検査の結果、息子は「ADHDの特性を持っている」という診断を受けました。けれど、担当した医師は「特別な療育や投薬が必要なレベルではありません。親御さんと学校の先生方が互いに協力して息子さんを見守っていけば、必ず良い方向に育っていきますよ」と言って下さいました。そして、息子への接し方に関するアドバイス、例えば、時間の流れを把握するのが苦手なので、目につくところに「やらねばならないこと」を順序立てて書いておくこと、文字による理解が苦手なので絵で書いて説明すること、などを教えてもらいました。

私は、その診断結果と担当医からのアドバイスを、教育委員会の機関と小学校に伝えました。

この時から、私と息子は良い方向に救われていったのです。息子に対する極端な対応に疑問を感じたこともありましたが、教育委員会の機関に行くことを勧めてくれた担任には、今では感謝しています。

ADHDの息子のこと・2(小学1年生のとき)

小学校に入学すると、同じクラスに息子と似たタイプの子、いわゆる「やんちゃ坊主」と呼ばれる子が5人いました。

授業中に歩き回る、頻繁に忘れ物がある、授業を聞かずに消しゴムやセロテープを使って工作をしている、集団行動ができない、怒りっぽくて喧嘩っ早い……そんな子が5人もいたのです。担任は心労でみるみる痩せてしまいました。

急遽、保護者会が開かれ、5人の子の親が呼び出されて、それ以外の子の親から責められました。「お母さんは、この状況をどう思っていますか」と問い詰められました。

私のところには、毎日のように担任から電話がかかってきて、学校での息子の様子を聞かされました。そのたびに、学校から帰宅した息子をきつく叱りつけました。母親としてできることは最大限やっていたつもりでした。しつけが甘いとも思いません。それどころか、厳しすぎるしつけをしていたと思います…。

その頃、息子は夜中に夢遊病のように起き上がり「ぼくはまいにち学校で先生にしかられてばかりで、すごくつらい」と言いながら泣き続けることが何度もありました。そのことを他のお母さんたちに伝えたら、みんな黙ってしまいました。

お母さんたちは、親や先生から毎日のように叱られ続けている子供の心が、どれほど傷ついているかを、そのときに初めて実感したのかもしれません。「わが子と同じなんだ」と。

帰り道、5人のやんちゃ坊主のうちの1人のお母さんが、話し掛けてきてくれました。「うちには長男がいるんだけど、その子もずいぶんやんちゃでね。でも、学年が上がるにつれておとなしくなっていった。5年生になったら他の子と変わらなくなった。大丈夫よ」と言ってくれました。その言葉がどれほど嬉しかったかわかりません。

ADHDの息子のこと・1(0歳~就学前)

息子は出産予定日よりも2週間も早く、正常体重で生まれました。生まれてからの身体の成長は著しく、4ヵ月検診などの定期検診に連れて行くたび「今日の横綱ちゃんです」と看護師さんから言われるほど、大きな赤ん坊でした。寝返りやハイハイを始めるのが遅くてやきもきしましたが、ハイハイを始めてまもなくつかまり立ちをするようになり、1歳の誕生日の頃には歩き始めるようになりました。

2歳になると、少しずつ言葉が出てくるようになりました。周りに比べて少し遅いかなと思いましたが、心配になるほどではありませんでした。ここまで、息子の成長や発達に異常を感じることはなく、検診で遅れや異常を指摘されることもありませんでした。

***

息子が2歳になってまもなく、私が仕事を本格的に再開したため、保育園に預けるようになりました。保母さんから聞かされたのは「情緒の波が大きいようです」ということでした。調子の良い日は保母さんの言うことを良く聞き、お友達とも仲良く遊べるのですが、調子の悪い日はまったくダメということでした。私の仕事が忙しい日は息子に十分かまってやれないので、息子の情緒が不安定になるのはそのせいかもしれない、と保母さんに伝えました。

息子が3歳になる前に離婚し、新しい土地で暮らし始めました。保育園も変わりました。以前の保育園は保母さんの数に余裕があって、とてもきめ細やかな保育をしてくださったのですが、新しい保育園は保母さんの数が少なく、とても手が足りていないように見えました。その保育園では、息子の「他の子と違う性質」がより際立ちました。保母さんから毎日のように「昼寝をしてくれない」「言うことを聞かなくて困る」「順番を待てなくてお友達と喧嘩をした」などと聞かされました。私は毎日「すみませんでした…」と謝るばかりでした。ひとり親として、自分と子供の生活費を稼ぐことで精一杯で、幼い息子の心をフォローしてやる余裕がありませんでした。その頃のことを思い返すと、息子に対して本当に申し訳ない思いと後悔で、涙があふれてきます。

保育園を卒園する時、年配の保母さんから「小学校に入ってうまくやっていけるか、とても心配です」と言われました。

体調がよくない時は抑えが効きづらい

この秋は、更年期などいろいろな要因が重なって体調が低空飛行です。

普段は、暴れ馬のような衝動性をいろいろな工夫でどうにか抑えているのですが、体調がよくない時は抑えが効きづらくなります。頭のなかでしょっちゅうプチッと糸が切れる。ちょっとしたことで、怒りの沸点に達する。

家族が汚した台所や洗面所・・・。

正しい分別ができていないゴミ箱の中のゴミ・・・。

開けっ放しのトイレのフタ・・・。

やり忘れたふりをして私にさせるさまざまな面倒事・・・。

普段なら「もー」と頭のなかでつぶやきながらサッと処理して、すぐに忘れてしまえるのですが、今は「プチッ」と切れて、怒りと非難の言葉が口から出る。ついでに皮肉や嫌味まで付け添える。怒りがなかなか治まらない。

そして「さっき、めっちゃ嫌なこと言うてしもたな・・・」と反省して、自己嫌悪をひきずる。そんなつらい日々です。きっと、家族も嫌な思いをしているだろうと思います。

こういう時は、口から出てきそうになる嫌な言葉を、どうにかして飲み込むしかないですね。そうすれば、必要以上に自己嫌悪に陥らずに済みます。

普段なら難なくできていることが、体調がよくない時はまるで修行のように思えます。早く体調が上向きになりますように。

 

空気を読めない - 会話が苦手です

先日、息子から厳しい指摘を受けました。(ちなみに息子もADHDです)

「お母さんの発する言葉は、人をすごくイライラさせるし、人を傷つける。会話するとき、この言葉を聞いたら相手がどう思うか、そしてどういう言葉を返してくるかを考えてみたら」

親の言葉に対して子供が反発心を抱くのはありがちなことですが、私の場合は、親子関係が息子をイライラさせる原因ではありません。

私が言葉を発するとき「この言葉を聞いた相手がどう思うか」を、まったく考えていないわけではありません。逆に、考えすぎて混乱して言葉を発するタイミングを失ってしまうことの方が多いぐらいです。

***

私は、いわゆる「空気を読んで」会話するのがとても苦手なのです。

最適のタイミングで最適の言葉を発しようとすると、頭の中で毛糸がこんがらがって絡まっていくような感覚を覚えます。そして、混乱したまま言葉を発すると、相手にとって「空気を読んでいない」言葉になってしまうのです。

家族に対しては、ストレートに言葉を発することが多く、「空気を読まなくてもいい」会話が許される場を、心地よく感じていました。けれど、やはり、私が発するストレートな言葉は、息子に対しても「空気を読めてない」言葉だったのです。

これからは、家族との会話にも、もう少し気遣いをしていかなくてはと思っています。そして、言いにくいことを指摘してくれた息子に感謝しています。

***

私は、幼い頃からコミュニケーションに文章を使うのが好きでした。会話ではうまくコミュニケーションができないことを自覚していたのだと思います。

会話と違って、文章はたっぷり時間をかけて言葉を選ぶことができるので、大事なことを伝えたいときは、今でも手紙やメールを使うようにしています。また、会話で相手を不快にさせてしまったときも、文章で謝罪を伝えるようにしています(家族に対しても、です)。

***

最適のタイミングで最適の言葉を発することができたら、会話でのコミュニケーションがどんなに楽しく素晴らしいことでしょうね。

生まれ変わったら、空気が読める脳が欲しいです。

忘れっぽさと衝動性をサポートするツール

私はきわめて忘れっぽいので、手帳、紙のメモ、アラームなど、記憶をサポートするツールを使わないと、まともに生活できません。

思いついたアイデアを記録するのに使っているのが、Google Keepです。ポストイットと同じような見た目と使い方のアプリケーションです。記憶から消えてしまう前にアイデアを書き残せる効果と、思いついてすぐに実行したくなる衝動をいったん落ち着かせる効果があります。実現したアイデアや、時間が経つにつれて色あせてきたアイデアは、削除していきます。


ADHDの人は衝動的な思いつきと行動に大切な時間とお金とエネルギーを浪費してしまいがちですが、このツールでずいぶん緩和できます。